根津山の日記

日々の生活をまとめます。世田谷代田、理科教育、戦前の教育

コスモス (科学と教育) 湯たんぽ 

 
長野で暮らし始めて、生活がゆっくりになりました。義母の寒いとの一言で湯たんぽを買いました。これがなかなかいいのです。

昭和の生活

昭和の作家で向田邦子さんの作品に何度か湯たんぽの記述が見られます。
冬の朝、一晩使って人肌にぬるくなった湯たんぽの湯を洗面器にあけ、大切に洗面に使う様子が「湯たんぽの余熱」の象徴として描かれました。その頃は、洗面所に給湯設備がないので、ぬるま湯になったお湯を大切に使っていました。向田さんのドラマにもよく出てきた描写ですが、
「湯タンポは朝までホカホカとあたたかかった。自分の湯タンポを持って洗面所にゆき、祖母に栓をあけてもらい、生ぬるいそのお湯で顔を洗うのである。・・・父は湯タンポのお湯は使わなかった。なんでもお父さんだけ特別にされるのが好きな人だった。父の湯タンポのお湯は、たらいやバケツにあけて母が洗濯や掃除に使っていた。」

収録『父の詫び状』(文春文庫) 向田邦子著

このエッセイでは、食事の作法や食卓の風景を通じて、厳格だった父や当時の家庭の空気が描かれています。湯たんぽのくだりは、冬の朝の家族の営みを象徴する小道具として、昭和の生活実感を伝える名シーンとして知られています。

 

湯たんぽは子どもの頃、父が使っていた記憶があります。病弱で細身の体には湯たんぽが役立ったのだと思います。父は湯たんぽのお湯を髭剃りに使っていました。

測定してみる

驚くほどの保温力でした。11時ごろ沸騰したお湯を目一杯湯たんぽに入れ、布製のカバーに入れました。すぐに布団に入れて、朝起きて取り出してみると、まだまだ温かいのです。測ってみると、42℃。時間は午前7時でした。もっと冷めるのかと思っていました。

 

湯たんぽの歴史

日本で最初に作られたのは、室町時代15世紀ごろとされています。中国から伝わってきて、陶器や銅板で作られたと記録があります。

大正時代にトタン板が普及し、昭和の頃の湯たんぽは大概がトタン板で作られていました。それまでは、銅板や陶器で作られていたそうです。

 

湯たんぽ カバーをして布団に入れておく

使用上の注意

トタン板は鉄板に亜鉛メッキした金属板です。熱伝導が良くて直接触ると火傷しそうです。布製のカバーが必要です。現在では、ポリエチレンやシリコンゴムなど異なった材料も使われています。

湯たんぽの注ぎ口ギリギリまでお湯を入れなければなりません。お湯のない空間があると、蒸気が凝縮し凹んでしまうためです。

お湯はギリギリまで入れるのがコツ

湯たんぽは「環境にやさしい生活」を感じますね。

国宝・旧開智学校訪問 見学と明治時代の教育の変化

 

コスモス 旧開智学校訪問

松本市は初めてではないが、開智学校は初めての訪問。開智学校は擬洋風建築として2019年に国宝に指定され、2024年に改装工事が終了し、改めて公開された。平日にもかかわらず、訪問者も多く見られた。2時間じっくり見学させてもらった。明治の学校を知るのにとても参考になった。

1 松本城の北にある開智尋常小学校

2 擬洋風建築 木造建築

3 校名の由来

4 腰掛ける生活と上履き

5 個人指導から集団指導への転換

6 最初は3教科

7 まとめ


1 松本城の北にある開智尋常小学校

旧開智学校(きゅうかいちがっこう)の校舎は、1876年(明治9年)に長野県松本市本町一丁目(現在の松本市中央2丁目)に建てられた。その後、現在地である松本市沢村(現在の松本市開智2丁目)に移築。建築家・大工の立石清重による、明治時代初期の擬洋風建築の校舎である。明治初期の小学校建築を代表する建物として広く知られている。

1963年(昭和38年)3月まで、松本市立開智小学校の校舎として使用されていた。

 


2 擬洋風建築 木造建築

設計・建築は大工の立石清重(たていし せいじゅう)。現役の小学校時代はもっと大きな学校だったらしく、現在国宝となっている校舎は建物の一部が保存されている。元々は教室の数が30余りあった。中身は木造建築で、壁や柱は木、壁は漆喰を用いた。教場(教室)は縦四間、横三間で少し小ぶり。天井までの高さは現在と同じく約3メートルある。職員室は広く作ってあるが、現代と比べると手狭に見える。

旧開智学校校舎を造った立石清重
建築の大作を手がけた、近代前期の日本を代表する大工棟梁と評価されています。
松本で大工を生業とする家の次男として生まれ、江戸時代から活躍していましたが、明治時代になると擬洋風建築を次々と手がけていきます。旧開智学校校舎の建設では、文明開化に盛り上がる地域の人々の想いを設計に落とし込み、唯一無二の校舎を造り上げました。
他にも、筑摩県師範学校や松本裁判所、長野県立松本中学校などの公共建築はもとより、寺社や民間会社、個人の住宅に至るまで、幅広く活躍しました。晩年は、辰野金吾をはじめとする建築家たちが立ち上げた「造家学会」にも加入しており、終生建築の道にその身をささげた人物です。
(館内展示より)

大工の立石清重(たていしせいじゅう)

3 校名の由来

「開智」の校名は、学制発布の前日に公布された太政官布告の「被仰出書」の文中にある「其身を修め智を開き才芸を長ずるは、学にあらざれば能わず」に由来すると考えられている。

館内にある「学制布告文」 蛍光灯が写り込んでしまいました

 


4 腰掛ける生活と上履き

服装はどうだったのか。長野県内のさまざまな写真を見比べると、洋服は広まっていなかったようだ。昭和になるまで男女とも和服が多かった。女の子の髪はまげ姿、男の子は短髪だった。履物は下駄、草履の子どもが多い。子どもの服装を考えていたら、途中で思いついたのが「昇降口」。学校で上履きを履くようになったのは必然だろうが、いつからだろう。想像するに、教室を下駄ばきで歩かれたらうるさくてたまらない。最初から上履きがあったのだろうか。

学校以外の生活では、畳、板間などで「座して」過ごしていた。学校へ行くと、机と椅子があって「腰掛けて」過ごしていた。このような西洋式の生活は、明治の学校から広まったことが想像できた。

上履きはその頃何を履いていたのか調べてみると、明治の初期から上履きはあったらしい。足袋や草履を使って履き替え、外のほこりや土を持ち込ませない取り組みはしていたようだ。

佐藤秀夫『教育の歴史』(放送大学教育振興会)によれば、
明治時代にできた小学校の7割は寺や民家の転用で、1890年代に畳敷きから板張りや立ち机に変わったが、外履きを脱ぐ習慣は残り、1920年代頃まで官庁、劇場、百貨店などでも上履きに履き替えた。
(Wikipedia)

 

開智学校の教室 一斉授業が始まった
 参考:寺子屋の様子

なるほど、開智学校は学校のロールモデルなのだ。その他の学校は寺子屋や手習塾が形を変えてスタートしたらしい。机や椅子の生活になるには20〜30年かかったようだ。

土足について見ると、靴を履いている子もいたが少なかった。足袋を履いている子もいれば、裸足の子どもも多かった。教師の姿を見ると、男性は羽織袴と洋装が混ざっている。そのため、靴を履いている男性も多く見られる。女性教師は袴姿が多い。

開智学校は、開設当初は寺院を転用して学校にしていたから、土足を脱いで裸足で上がったに違いない。立石清重による擬洋風建築によって床が板張りの校舎が建てられた。恐らくだが、板張りであっても土足を脱いで上がっていた。おそらく裸足から始まったのではないだろうか。建物の様式と同様に、西洋化は進むが和洋混合の生活スタイルになっていった。家での生活は和式、畳の上で座って生活していたが、学校へ行くと椅子に腰掛けて学ぶ生活に切り替わっていった。この生活が一般庶民に広まるには、昭和になり洋間が普及するまで待つことになるのだろう。

余談になるが、ゴム底の上履きで知られているのが「バレーシューズ」だ。いつできたかというと、月星シューズで作られ、1957年には「上履き」という名前が広まった。アサヒシューズ、アキレスなども同様の靴を発売。昭和生まれの世代には懐かしい。


5 個人指導から集団指導への転換

江戸時代までは、庶民の教育は個別指導だった。寺子屋や手習い塾など、市民教育の教場(教室)には多くの子どもが通っていた。一人の師範に、年齢・男女が混じった子どもがいて、基本は子どもと向き合って個別指導をしていた。向き合いながら字を直す、手習い(お習字)が上手な師範が人気だった。

明治になり、一斉授業に切り替わっていった。開智学校の展示で、掛け図が明治の初期から多用されていたことがわかった。もちろん黒板が備えられ、机と椅子が整然と並んでいる。師範は掛け図を用いて繰り返し唱えたことだろう。恐らく、師範も児童も初めて一斉授業を体験したに違いない。手探り状態が続いたのかもしれない。

この掛け図を見ながら「大勢に見せる教材が重宝した」と改めて思い返した。虫や昆虫、植物の名前を知るために掛け図を多用した。理科室が整わない時代、教室ではこのような掛け図を使って漢字や言葉の意味を習っていた。

掛け図は教科書の普及とも関係しそうだ。明治期は教科書も学費も有償で、「どれほどの児童が教科書を持っていたのか」と新たな疑問が浮かんできた。教科書を持てない子どもが教室にいてもおかしくない。明治・大正と就学率が上がり、教科書も国定となり、筆記具は次第に筆から鉛筆に変わっていった。どれだけ学校の様子が変化したか想像するだけでワクワクする見学になった。


6 最初は3教科

開校間もない明治6年(1873)の開智学校の時間割はとてもシンプルでした。教科は3つのみで、それぞれ2時間ずつ勉強しました。昼休み以外の休み時間はありませんでしたが、それでは大変だと、間もなく授業の間に5分間の体操を行うようになります。(館内展示より)

 

表 開智学校 明治6年(1873)の時間割

 

甲組

乙組

丙組

9時~11時

読本

算術

習字

11時~12時

算術

習字

読本

12時~13時

喫飯・体操

喫飯・体操

喫飯•体操

13時〜14時

算術

習字

読本

14時〜16時

習字

読本

算術

(館内展示を参考に改変)

その後の時間割(4・5年生)の変遷は下に示した通りです。初めは国語・算数・修身・体操・唱歌が中心でしたが、徐々に地理・歴史・理科が加わるようになりました。戦時中は体操が「武道」に、歴史が「国史」に変わるなど、教育方針の変化を見て取ることができます。(館内展示より)

7 まとめ

今回は開智学校を見学して、子どもたちの環境や生活について触れてみた。開智学校は明治初期に擬洋風建築を備え、子どもたちが洋式の学校のモデルとなった学校である。個別指導から一斉授業へと切り替わったことで、生活はどのように変化したのか。さまざまな発見があった。とてもイメージが広がる見学となった。

館内の展示には、教師の心情や発言が示され、指導案なども見ることができる。それについてはまた機会を作って紹介したいと思う。富国強兵で語られがちな学校教育にあっても、開智の教育からは「生徒に寄り添う」視点が見て取ることができた。

 

<資料>

開智学校のあゆみ

寬政5年

1793

・松本藩が藩校崇教館を設立

明治3年

1870

・藩校県教館を松本藩学に改称、翌年松本県学、筑摩県学へと発展

5年

1872

・県参事(後に権令)永山盛輝が「学校創設告諭書」を発布

・明治政府が学制を発布、近代学校の整備が本格化

6年

1873

・筑摩県学を改め、旧全久院を校舎として開智学校が開校

・開智学校に女子部を附設、旧生安寺を校舎とした

・筑摩県師範講習所が校内に開設(後に移転、現信州大学教育学部)

9年

1876

・旧全人院校舎を解体し、擬洋風校舎を新築(現国宝校舎の竣工)

・第十七番中学変則学校が校内に開設(後に移転、現松本深志高等学校)

13年

1880

・明治天皇東海道御巡幸に際して、開智学校に臨幸

17年

1884

・アメリカ・ニューオリンズ世界万国博覧会で校舎の写真が展示される

20年

1887

・開智学校内に附属幼稚園併設(現松本市立松本幼稚園)

23年

1890

・特別支援教育(後の成績不良児特殊教育)の取り組み開始

24年

1891

・開智学校内に開智書籍館を設置(現松本市中央図館)

25年

1892

・男子部と女子部に分かれ一市一校制スタート

26年

1893

・アメリカ・シカゴ世界万国博覧会に校舎の写真が展示される

31年

1898

・校訓「愛正剛」、校歌などが制定される

32年

1899

・子守教育所開設(開智学校では前年から子守教育が始まる)

33年

1900

・不就学児童らを対象にした特別学級が設置される

37年

1904

・一市一校制下の部校となる源池部開校(現松本市立源池小学校)

39年

1906

・校地内に明治三十七八年戦役紀念館開館(現松本市立博物館)

42年

1909

・女子部に市立松本女子職業学校(現松本美須々ケ丘高等学校)併設

43年

1910

・部校・田町部開校(昭和38年に開智小と統合)

大正5年

1916

・松本訓盲院(源池部内)や裏町特別学級を設立

7年

1918

•部校•筑摩部開校(現松本市立筑摩小学校)

12年

1923

•部校•旭町部開校(現松本市立旭町小学校)

14年

1925

・部校・井川部と田川部開校(現松本市立田川小学校)

昭和3年

1928

・部校・清水部開校(現松本市立清水小学校)

・開智学校校舎改築工事(教室棟の改築)

8年

1933

・部校・井川部が移転し鎌田部となる(現松本市立鎌田小学校)

10年

1935

・一市一校制廃止により部校がそれぞれ独立校となる

24年

1949

・明治9年竣工の本館部分が国の重要美術品に認定

36年

1961

・本館が国の重要文化財に指定される

38年

1963

・新校舎の移転新築に伴い、旧校舎(現国宝校舎)の移転復原工事実施

40年

1965

・教育博物館として一般公開開始

令和元年

2019

・近代学校建築として初の国宝に指定される(近代建築では3件目)

(国宝・開智学校資料より転載)

 

日本の学校は「一人称がない」学び ・・・佐伯胖氏「子どもがケアする世界をケアする」を読んで

「日本人には一人称がない」  

みんな = 私たち = 三人称的おてんとうさま 

 

 

「子どもがケアする世界をケアする」

佐伯胖(さえきゆたか)編著  ミネルヴァ書房 (2017.8)

の中から

 

佐伯胖 著

第1章「二人称的アプローチ」入門 

p70~77 より抜粋

 

「二人称的アプローチ」の難しさ

たとえば、「子どもに寄り添っている」つもりが、「同感的かかわり」となり、結果的に「アタッチメント病」に陥ってしまうことがありました。そしてそれが高じてくると、大人社会にも蔓延した「私たち中心主義」になり、山岸俊男が日本社会の特徵としてあげた「安心社会」思考でカラに閉じこもつてしまうことも警告しました。

この「安心社会」にはまってしまうのは、前節最後に述べた「おてんとうさま」が、「私たち」という閉じた社会の規範になってしまって、常に「上空」から「オマエはみんなと同じか」という監視のまなざしを向けられているのです。

私たちが他者との親密なかかわりを「同感的かかわり」と見なすこと(「アタッチメント病」)と、「安心社会的おてんとうさま」とは、ともに「私たち中心主義」という点でつながっているのです。したがって、本当の「二人称的アプローチ」を身につけるには、まずは、「私たち中心主義」から脱することからはじめなければなりません。考えてみると、「私たち中心主義」では、この「私」独自の主体性(一人称性)が弱いのです。自分の主体性があいまいだから、他者の他者独自の主体性の認識も弱く、きちんとした「相互主体性(intersubiectivity)」がもてないのです。

実は、私自身が、自分の主体性(一人称性)が「弱い」ことを痛感した経験があるので、そのことについてお話します。

2015年の10月に、私は何十年ぶりかで母校(箕面自由学園中学校)の同窓クラス会に出席しました。あまりにも「久しぶり」だったためか、「卓話」をするようにと頼まれました。電話で依頼されたとき、「卓話」って何のことかわからず、說明してもらったところ、いわゆる「テープルスピーチ」のことで、食事前の数分、自己紹介をかねて何かについて語ってくれということだと了解した次第です。以下がその「卓話」の抜粋です。

 

<日本人には一人称がない>

私は1966年にフルブライト留学生としてアメリカのワシントン州、シアトルにあるワシントン大学大学院の心理学専攻に入学しました。大学院生活は大変厳しいもので、膨大な文献を読んだり、レポートを書いたり、さらに、機関銃のようにまくし立てる講義を聰き取ってノートに記したりで、息つく暇もないぐらいでしたが、週末には院生の誰かのアパートなどで、缶ビールを持ち寄って談笑したりもしていました。そういうとき、「今週の○○という授業での△△の話、あれはどうなんだろう?君はどう思う?」などと話し合うのですが、ときには「サエキはどう思う?」と聞かれる。私なりに勉強したことをもとに、それについての最近の研究を紹介したりしはじめるのですが、何となく「うさんくさい」というような反応。こちらも何となく気落ちしてしょんぼりしていると、ある友人がこうはっきり言うのです。「サエキのいまの話は、その研究についての·What is Supposed to be true の話だが、サエキ自身がWhat is true.についてどう考えているかを聞きたいのだ」と。これは非常にショックでした。①私は長年、勉強というのは「何が真実とされているか」について調ベ、整理し、覚えることと思って一所懸命、努力しており、「何が真実なのか」を自ら問うなどということは、どこかエライ人、天才的なアタマの持ち主がやることで、我々凡人はそういうエライ人が唱えた「論」を「真実だということにして」覚えるだけだと思い込んでいました。

そこから脱して、自分自身で「本当だと思えること(納得すること)」を求め、’68年に修士論文、’70年に博士論文を書き上げて一年間のポスドクを終えて帰国したのですが、日本の心理学会誌の論文は、すべて “What is supposed to be true"ではじまり"What is supposed to be true” で終わるというものばかりで、論文執筆者自身が「本当に何が真実かをこの私が問う」という気迫も意欲もまつたく感じられないものばかりでした。

このことは、次の言葉に要約できるでしょう。日本人には、一人称がない。

たしかに、② 日本語の文章では、一人称なしで十分成り立つのです。ものごとを主張するときは、「そのことが真実だと私は信じる」と主張するのではなく、暗に「みんな、そうなんです(みんな、それを真実だとしている。”They suppose it to be true.”)」といういわば、「民が」という得体の知れない三人称複数の承認を期待して語るのです。私たちが学校で「勉強すること」というのは、小学校から大学、否、卒業後の社会でも、すべてと言っていいほど、「みんながそうしていること」を身につけることに専念しているのです。「みんな」がどうであるかで「·······すべきである」、「·······でなければならない」という「ベき·ねば」思考が生まれ、それを身につけることが発達であり、成長であり、人格形成であるとしてきているのです。(以下略)。

私たちが「みんな」というまなざしのもとで、「ベきである」/「ねばならぬ」に駆り立てられ、「みんな」に合わせようとしてしまうのは、「この私」という一人称的自覚が希薄だからだというのが、私の留学経験から得た結論でした。「サエキよ、サエキ自身は、何が本当だと思うのかを言え」と言われて、このワタシが本気で「何が本当か(What is true)」を問うてこなかったことに気づいた次第でした。

しかし、米国の大学院の授業では、「土砂降りの雨のなかをずぶ濡れになって歩く(彼らはそれをSwampingと言う)」ように、次から次へと膨大な量の文献を読まされるのです。それらすべてにまじめに取り組めば、「何が本当だとされているか(What s supposed to be true)」ばかりに関心を向けるのは、まじめな大学院生なら当然だといっていただきたいところです。しかし他の大学院生と話してみると、彼らは膨大な量の文献を「土砂降りの雨のなかをずぶ濡れになって歩くように」読みながらも、「この論文のこの考えはおかしい」、「この考えはすばらしい」、「この研究はつまらない」·······など、片っ端から「自分なりの評価」で読みこなしているのです。ですから、誰かが「論文についてどう思うか」と問われれば、即座に、「私はこの論文はすごいと思う」とか「まったくつまらない論文だ」とかが言えるのです。こんなことがどうしてできるのかがなかなかわからず、謎のままでした。

私がこういう「自分なりの鑑識眼」を身につけるにはずいぶん苦労をしました。それを身につけるためには、論文を読むとき、執筆者になりきって(いわば、執筆者と二人称的にかかわって)、「私がこの論文の執筆者なら、どういうふうに考え、どんな実験をやろうと思うだろうか」と考え、(13)「自分自身がその論文の執筆者になって」読むというクセを身につけることでむ。おそらく、米国の大学院生たちも、論文の書き出しを論文執筆者になりきってじっくり読んでから本文はさっと「ポイントだけ」抑えて読むので、読み終わったところで直ちに「これはつまらんー」、「これはすごいー」と判断できたのではないかと想像できます。

論文を読むとき、自らの「一人称性」をきちんと踏まえつつ(自分自身、Wbat is supposed to be trueではなく、What is trueを探求して)、そのうえで執筆者にできるかぎり「二人称的(共感的)」にかかわろうとしながら読み進めるならば、学術研究も「二・五人称的」に探求することになるでしょう。

「みんな」=「私たち」= 三人称的おてんとうさま

③ 私たち日本人が、いつも周辺の「みんな」を気にして、「みんな」のまなざしから「いかにふるまうべきか」、「どうであらねばならないか」ばかりを考えるというのは、その「みんな」というのが、「私たち」と呼ばれる共同体(研究者や実践者の場合は、同じ領域の同業者集団)の内側を意味してます。「私たち」といえば文法的には「一人称複数」ですが、その「一人称」(自らの主体性)自体が確立していないままの非人称的·匿名的な仮想主体であり、むしろ、「三人称的」なものです。それが「おてんとうさま」になりかわって、私たちに「ベきである」「ねばならぬ」を突きつけているのです。「おてんとうさま」が「北風と太陽」の「太陽」のような、おだやかでやさしい存在ではなく、厳しい監視と評価をくだす権威をかざした「おてんとうさま」になってしまつているです。

今日の日本の多くの保育者たちが、計画主義と評価主義の監視と管理にがんじがらめになって、每日提出しなければならない計画書と報告書に追われている現状を考えると、「北風と太陽」の「太陽」のような「おてんとうさま」のもと、二・五人称的まなざしで保育実践が行えるというのは、「夢のまた夢」にすぎないかもしれない······そんなことで良いはずはないー

これが一人称としての私の、二人称であるみなさまへの訴えであり、魂の叫びです。

 

脚注 (13)一般的に、学術論文は「はじめに」(intoduction)の節(書き方によつては、「背景」とか単に「序」とされる)で、執筆者がどういうことを問題とみなして、何を解明しようとするかが述べられています。そこで、「執筆者になりきって」論文を読むには、その「はじめに」を丁寧に読んで、あとに出てくる理論や実験を想像するのです。自分が執筆者だったら、どう論じ、どういう実験を考えるかを考えてみるのです。そのうえで、その論文の先を読んでいくことで、執筆者のみごとな論法やみごとな実験方法に感心するか、もしくは、「あてがはずれて」がっかりするかが決まります。

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<振り返り>

多様性と一人称

①   「勉強というのは「何が真実とされているか」について調ベ、整理し、覚えること」

私が探究学習に取り組み始めて、気づいたことが、1人称の学びだ。学びは個人のもの。みんなで学ぶこともあるが、学びは一人ひとり違っていて、最終的には学びは個人のものであると考えるようになった。

かつて驚きであったことがある。佐伯氏が述べたように、科学教育も(私の知っている英国の)学生が示す目標も「自分の考えを持つ」ことだった。著名な科学的論文に限らず、論文はエビデンスをもとに考察、結論を述べる。そのため信頼性も高い。しかし、その原点として何のために論文を書くのかとなると「自己主張」だというのだ。

  学校の学びと「勉強」

②     私たちが学校で「勉強すること」というのは、小学校から大学、否、卒業後の社会でも、すべてと言っていいほど、「みんながそうしていること」を身につけることに専念しているのです。

「探究的な授業」を考えていく中で、教師の間でギャップを感じるのはここだ。一人ひとりが自立し、大人にになるために、教師は一生懸命取り組んでいるが、学びの背景にはいつも「みんながそうしていること」を意識して指導している。その根拠にしているのが、学習指導要領であり、教科書でもある。多くの教師が学習内容に意義を見出し、教える内容を丸ごと納得して取り組む授業はどれくらいあろうだろうか。自分もそうだが「試験に出るから、出ないから」で教える軽重を判断し、試験に出る問題を生徒が的確に解けるようになることが目標になる。生活指導では社会的規範となる。社会に出るため多くの上級学校や企業・組織に受け入れてもらうため、普段から(どうでもいいような)姿勢や態度を作法として指導することになる。

これからの時代、新しい学習指導要領が示す、多様な生き方に「個別最適化」した「ウエルビーイング」を実現するには、学校は態勢を整えているとはいえない。今の現実は、教師の多様な生き方に取り組む時間はごくわずかではないか。ぎっちり詰まった「指導の山」の中にどのようにこの取り組みを見出すことができるのだろうか。

息ぐるしさ

③ 私たち日本人が、いつも周辺の「みんな」を気にして、「みんな」のまなざしから「いかにふるまうべきか」、「どうであらねばならないか」ばかりを考える。

SNSが広がる以前から、周りのことを気にする習慣は広がっていた。簡単なことでは、体操着や上履き、制服などは細かいところまで気にしていた。学年でクラスもなるべく差がないように生活指導も行っていた。

特に「ずるい」という言葉は日本の社会では力を持っていて、教師に深く突き刺さり、(海外のような)指導の多様性、寛容な生き方を許さず、教師の主体的な指導を阻むことになる。「ずるい」によって公平さが求められるため、課題は白黒はっきりした解答が好まれることになる。異質なものを嫌うため、多様な意見を寄せ合って、問題を考えることは指導にそぐわなくなるのだ。

 

三人称的おてんとうさま = 「水戸黄門」・御公儀 

この三人称的おてんとうさまを読んで、かつての「水戸黄門様」を思い出した。どこかで「御公儀様が見ていて、間違ったことをしてはいけない」というストーリーが好きな国民だ。「安心社会」が重要な国民性が連想された。そのため、上の者にみんなに従っていれば、お咎めもなく生きていける。実力よりも、先輩や実績が重視されやすい社会かもしれない。

 

 

 

探究とAI 教師の未来: 子どもの限界を越える教育

 

 

坪本先生を訪ねました


富山県の先生との交流

昨年10月引き続いて、富山県の先生と交流してきました。

10月21日 砺波市立出町中学校 坪本吉史 先生

10月22日 黒部市清明中学校 学校訪問&研修

10月23日 富山大学教育学部理科教育 月僧秀弥 准教授  

       元富山第一高等科学校 物理 戸田一郎先生

振り返ってみたいと思います。

坪本先生を訪ねて

・部活動見学

坪本先生との交流は20年以上になるだろうか。先生の指導は疑問から問いをしっかり立てて、仮説、実験を丹念に追いかけている。部活動で、生徒の力を引き出していて、いつ見ても感心してしまう。

・目の付け所と進め方

生徒たちが県の文化祭での発表を私のために再度は披露してくれた。実験室の薬品庫の錆びの理由に着目し、酸性の薬品の違い、保管方法の影響、錆びを防ぐ方法など、身近な現象である錆を巡って丁寧に追求していた。中学生が取り組むには、時間と手間がかかるだろうという想像に難くない。発表を見て、坪本先生が持っている探究的な学びの指導の力量を感じてしまう。

いつものことなのだが、先生に会うとどうしたらこのような指導ができるのか、追跡したくなる。そのセンスが知りたいと本心から思った。

・懇談

部活動の見学の後、近くの素敵なお店で懇談した。

坪本先生は現職でありながら、自主的に「放送大学院」に入学し研究を進めている。もう少しで卒業である。集大成の論文の学会投稿の苦労話を聞かせてもらった。

これまで扱ったことのないデータの分析方法をしているとのことだった。さまざまな研究データをA Iを活用して研究、分析を進めている。

例えばだが、坪本先生が取り組んだのは、ChatGPTに「こんな処理をするプログラムを作成して」と指示すると、データを統計処理するR言語で動くプログラムが出力される。出力されたプログラムを実際に走らせるとエラーが返ってくるので、こんなエラーが返ってきたとAIに返してやると、エラーの原因や対処方法を提示してくれる。こういったやり取りを何回か繰り返してプログラムを完成させていた。

先生曰く、

R言語は夏休みに分厚いテキストをすべて手打ちして勉強したけど、自分でやりたい処理をプログラムにすることができなかった。AIがなかったら、研究が進まなかった。」

とのこと。

考えてみると、多くの人は大人になってからだと、苦手な分野もはっきりする。仕事もあって、「学び直し」を試みるも、それを乗り越えられずに諦めもできてしまう。仮に、数学的な処理が得意な人でも神経を使い面倒である。しかし、大変な計算をA Iはいとも簡単に解いてしまう。

「自分のできないことをA Iにやらせて、研究は進んでいる」

高い専門性が必要な部分も補って、自分の問いを追求できるというのだ。

・ともに考えたこと

私からも情報提供した。子どもの作品の評価、文書の読み取りなど、これまで教師が一手に担っていた仕事をA Iが処理する例を紹介した。坪本先生も関心を寄せていた。

坪本先生と和光の二人で一致した考えは、これからの教育は「探究的学習であなたの限界を越えられる」であった。

私にできた考えは、このままでは、「教師は子どもの限界をつくっている」のではないだろうかという問いが生まれたことだ。

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夜9時を回り、次の訪問があるので、富山市のホテルまで戻らなければならない。砺波駅まで見送りに来てもらった。今度は近いうちに坪本先生の授業を見学に行くことを約束した。

 

高岡にも寄りました

 

湿度とボールの飛距離関係:あの元大リーガー選手でも誤解を解く

コスモス「湿度が高いとボールが飛ばない」

ワールドシリーズは劇的なスミスの Back-to-Back Home Run で幕を下ろしました。2年連続のシリーズ制覇は見事でした。

さて、このシリーズの第6戦、テレビで解説を務めた元大リーガーのTさんが試合前の予想展開を解説する中で、こんな言葉がありました。

「今日は湿度が高いので(打った)ボールが飛ばないから……」と、試合の流れを左右する情報を伝えていました。

これを聞いていた私は、「おや? おそらくこれって野球選手の素朴概念だ」と直観で思いました。つまらないことですが、野球のことより、そこに関心が引っかかってしまいました。

湿度で飛ばなくなるのは本当か

なぜ飛ばないと感じてしまうか。

なぜ、湿度が高いと「空気が重い」と感じるか。

広く知られた誤解(common misconception)です。この思考パターン自体や、なぜそう感じるのかという心理的な説明がいくつか見られました。この誤解は主に、人間の体感が物理的な事実と異なるために生じているのです。


1. 身体的な不快感(「重さ」の感覚)

湿度が高いと、人間は空気が「重い」「蒸し暑い」「息苦しい」と感じます。これは、空気の密度とは関係なく、体が感じることによるものです。

  • 発汗の蒸発阻害:湿度が高いと汗が蒸発しにくくなり、体温調節がうまくできなくなります。

  • 熱がこもる:体から熱が逃げにくくなるため、体が熱を持ち、疲労感やだるさ(湿度疲れ)を感じます。

  • 息苦しさ:体が熱ストレスを感じると、心拍数が上がったり、呼吸が浅くなったりすることがあり、これが「空気が重い」という感覚に繋がります。

これらの不快な体感を、無意識のうちに「空気の物理的な重さ(密度)」と結びつけて解釈してしまうと考えられます。


2. 水は空気より重いという直感

「水」は液体の状態では「空気」よりはるかに重いため、「空気に水(湿気)が加わるのだから、空気も重くなるはずだ」という直感的な推論が働きます。しかし、湿度は「水蒸気」(気体)の状態であり、その分子は空気の主成分よりも軽いため、この直感は誤りです。


3. 「空気が水を含む」という表現

「空気が湿気を含む」といった日常的な表現も、誤解を助長する可能性があります。まるでスポンジが水を吸うように、空気の隙間に水が入り込み、全体の質量を増やすようなイメージを想起させるためです。実際には、水蒸気分子は空気分子(窒素や酸素)を置き換える形で存在しますから、空気には同じ数だけ分子があります。


ボールの飛距離は湿度とほとんど関係ない

空気の重さ(密度)は湿度の関係


湿度と空気の重さ(密度)

  • 密度:気温や気圧が一定の場合、湿潤空気は乾燥空気よりも密度が低くなります(軽くなります)。これは、空気の主成分(窒素:約28g/mol、酸素:約32g/mol)よりも水蒸気(約18g/mol)の分子量が小さいため、同じ体積で比べると軽い分子が多く含まれるためです。


湿度が高いときの空気は乾燥した空気より粘性は高くなるか

湿潤空気は、乾燥空気よりも動粘度は高くなります。これは、以下の理由によります。

  • 粘度(絶対粘度):水蒸気の分子自体の粘度は、空気の主成分である窒素や酸素の分子の粘度とほぼ同等か、わずかに低いです。そのため、空気に水蒸気が混ざることによる絶対粘度への影響は非常に小さいです。

  • 動粘度:動粘度は「絶対粘度 ÷ 密度」で定義されます。湿潤空気は乾燥空気と絶対粘度はほぼ同じですが、密度が小さいため、結果として動粘度は大きくなります。

したがって、わずかですが湿度が高い空気は、乾燥した空気よりも動粘度が大きくなります。しかし、この粘度はボールの周りの空気の流れにとって重要ですが、高速で飛ぶボールにとって、粘度は飛距離と関係ないのです。


動粘性とは関係があるかないか

いいえ、動粘性は野球のボールが飛ぶか飛ばないかに関係あります。ただし、その影響は非常に小さく、飛距離を決定づける主要な要因ではありません。

動粘性の影響

  • 空気抵抗への影響:ボールが空中を飛ぶとき、ボールの周りには空気の層(境界層)が形成されます。この境界層の振る舞い(剥離点など)は、空気の動粘性によって変化します。


改めて湿度が高いとどうなるか考えると

野球の球が飛ぶか飛ばないか、湿度の差で変わるか考えたい。たとえば、湿度の高い時はどれくらい飛ばなくなるだろうか。湿度が上がると、(空気自体の物理的特性に限れば)野球のボールはむしろわずかに飛びやすくなります。

ただし、多くの人が「湿気が多いと飛ばない」と感じるのには別の理由があります。


湿度が上がると飛距離が伸びる理由(空気の影響)

科学的に見ると、湿度の高い空気は、同じ温度・気圧の乾燥した空気よりも密度が低くなります。

  • 空気の主成分である窒素や酸素の分子量(約28〜32 g/mol)は、水蒸気の分子量(約18 g/mol)よりも重いです。

  • 空中の重い分子が軽い水蒸気分子に置き換わるため、空気全体の密度が下がるのです。

  • 空気が薄い(密度が低い)ほど、ボールが受ける空気抵抗(ドラッグ)は減るため、ボールはより遠くまで飛ぶことができます。

湿度で飛ばなくなると考えがちな選手たち それは汗も関係する

湿度が上がると飛ばないと感じる理由(ボールの影響)

湿度の影響が「飛ばない」と感じられる主な要因は、ボール自体が水分を吸収して重くなったり、反発力が低下したりすることにあります。

  • 雨天時や湿度が高い環境に長時間置かれたボールは、表面の革や内部の素材が水分を含みます。

  • 水分を含んだボールは、乾燥したものよりも重くなり、バットが当たった時のエネルギーロスも大きくなるため、初速や飛距離が低下します。


飛距離の具体的な差は?

純粋な空気の密度変化による湿度の影響は非常に小さいです。

  • たとえば、湿度が0%から100%に変化した場合の飛距離の差は、ホームラン級の打球で1フィート(約30センチ)程度しか変わらないという研究結果もあります。

  • 気温の変化の方がはるかに影響が大きく、気温が10℃上がると飛距離が約3フィート(約90センチ)伸びるとされています。

このようなデータも示されています。


結論

空気の湿度が直接飛距離を大きく減少させることはなく、むしろわずかに増加させます。
しかし、ボールが湿ることによる影響の方が実戦では大きく、それが「湿度が高いと飛ばない」という一般的な認識に繋がっていると考えられます。

外国人技能実習生ナディア  インドネシアから日本へ ムスリムの生活と希望

カランティア ナディア(仮名)

外国人技能実習

インドネシア ジャワ島 首都ジャカルタ出身

ナディア 

身近なインドネシア

身近な外国人の一人です。ボランティアを一緒にしています。お昼をとりながら話をしました。(本人にブログにのせてもいいか聞き、OKしています。)

ナディアと会うと、故郷のインドネシアの話をする。単なる一人のケースかもしれないが、知らなくて驚くのが毎回ある。日本に来てすでに3年になる。日本語はまだたどたどしいが、普段の生活で困ることはなさそう。ナディアはヒジャブを身につけていない🧕。だから、普段の様子を見るとムスリムとは気づかないだろうと思った。

ある日昼ごはんの時、「私は、いつもブタは食べない」と教えてくれた。自らイスラム教徒であることを控えめに告げて皆さんが理解していた。イスラム教徒は食べ物の文化に特徴があって、日本での生活は神経を使うという。ブタを食べる習慣がなく、ハラルという独特の材料、調理をしたものだけを食べる。

 

ラマダ

ムスリムの習慣では、昼間に断食をする「ラマダン」が有名で、いつもラマダンのときはどうしているのか聞いてみた。ナディアも断食するそうで、その月(太陰暦)の30日間は昼間には一切食事をしないという。

「水はどうするの?」

すると、

「水もダメ」

という。暑い時だったら、中東の国々はどうかと心配したが、そうらしい。年寄りや病人、子どもは断食を免除されるらしく、食事ができる。日が暮れると、食事をとっていいので、その日の1日の食事を夕方に摂る。昼間は断食だが、ナディアは朝3時に起きて朝ごはんを食べるという。

「そんなに早くから起きるのか」と驚くと、笑いながら「そうだよ」と言った。

お祈りのことも聞いてみた。ムスリムは一日5回お祈りをする。朝5時ごろに最初の祈りがある。「忙しくてできない時、寝坊したりした時、どうするの」と素朴に聞いてみた。「次の祈りまでにできればいいよ」とのこと。時間ぴったりにできない人は、少しずれてもいいらしい。でも、お祈りをパスして省略してはいけない。

「なるほど、ムスリムの人はどっか気づかれないところで祈っているわけだね。ナディアもちゃんとやっている?」

と聞くと、

「まあね」

と笑っている。

 

ナディアの希望

ナディアは来年の春にインドネシアに帰る。技能実習生の契約を延長できるが、「しない」らしい。

「なんで延長しないの。また、日本に来る予定でしょ?」

「そうだよ」

「そうすると、特定技能実習生かな? お給料も上がるけど、あれって、日本語の試験もあって、大変らしいよ。」

「違うの。それでビザを取るつもりはない。」

「そうか、どうするの」

「勉強したい」

 

聞いてみると、勉強して大学に行きたいらしい。今の暮らしを改めて聞いてみると、お金を貯めて大学に入るために、頑張っているのだ。

「どこの大学。アメリカの大学かな。インドネシアからは多くの学生が行っているよね」

「日本の大学に入りたい。それがダメなら、専門学校でもいい。」

そうか、やはり日本語を勉強しているのは、そのためとわかってきた。日本では多くの大学がアジアから留学生を受け入れている。珍しくない時代だ。東京には多くの日本語学校や観光の専門学校があり、東南アジアやインド方面の若者をよく見かける。

「頑張って。きっと叶うよ。どこかいいところ、いい大学を調べたの?」

「いくつか知っている。」

「来年入れるといいね。でも、東京や大阪は物価が高いから、住むの大変だ。どうするの。地方の学校も調べたらいいよ」

「そう、千葉とか埼玉の学校もあって、聞いたことがある」

 

ナディアの生活

心配になって今働いている会社の月々の給料を聞いてみた。

「およそ11万円」

残業がないと、これくらいらしい。この中で、食費など生活費を出している。家はアパートを借りていて、それは給料から天引きされている。仕事を聞いてみると、

「自動車部品を作っている。機械に材料を入れてスイッチを押すだけ。簡単だよ。でも、1日中、立っているから足がむくむ」

「そりゃ、大変。私もやったことあるからわかる」

若いときに、二交代制で部品工場でしたことがあるから、その辛さがわかる。

大学の学費を貯めてはいるが、小遣いのうち、月々3万円はインドネシアの母親に仕送りをしている。ちょっと、これじゃ学費は貯まるのだろうか。

「大丈夫かな?」

と顔をのぞくと

「来年、インドネシアに帰って、文部科学省奨学金の試験を受ける。それを合格して日本の大学に来たい。でも、とっても大変で、毎日少し勉強している」

 

将来は日本で学ぶこと


願いは同じ 頑張れ

兄弟は二人の兄がいて、家族もいる。20歳も離れている。こんな妹を日本に出して、可愛いくて、でも心配だろうと思った。インドネシアで働いていたとき、月給はおよそ2万円だったらしい。仕送りもできるし、大変だけど貯金もできる。

「今の方がとっても楽しいよ」

「そうだね、買い物や食べ物で日本はとても楽しいね。ユニクロも回転寿司もあるしね。それで、失礼だけど、今は何歳なの」

「23歳」

「そうなんだ。来年、試験に受かるように願っているよ」

「どうしても、来たいから頑張る」

そうだ、大学に入り直したのは、24歳から。自分のことを思い出した。あの時は、目の前のことでいっぱいだった。ナディアも今の自分の未来を描くのに背一杯だ。やっぱり胸が暑くなる。もう一度日本に来られるように願うばかりだ、

 

 

<<余談>>

ハラル

かつて私の生徒でも、イスラム教徒の生徒が二人いた。一人は給食の主菜を持ち込みで食べていた。一人は、特に手立てをしない時もあって、主菜や副菜を食べていないことも多かった。厳密なハラルだど、豚の油や豚を調理した鍋釜を使った料理も拒否するらしい。そうなると、給食では対応ができないので、全て提供をしないことで約束する。最近、「宗教2世」というワードが広がったが、このような戒律、制約は宗教には伴うのが通例で、特段に慌てることもなく食事の支度では粛々と対応する。よくあったのは、アレルギーの子どもの除去食と同じように、色違いの密閉した食器に名前が書いてあった。

 

 

世界7位の大国

インドネシアは世界で一番イスラム教徒が多い国だ。多民族国家だが、人口がすでに2億8千万人をを超えており、世界7位の人口を抱える。オランダ統治が3世紀続いたが、ムスリムが反乱を起こし、民衆で広まった。20世紀には日本の軍部が統治する時代もあったが、終戦とともにインドネシアは独立を果たした。G D Pでは16位と東南アジアの中では、唯一G20に参加している。

 

祈りの時間

イスラム教では1日5回祈る。一回の祈りは5分から10分程度らしい。

決まりがあって、2セットとか4セットとか繰り返す。

・ファジャル (早朝の祈り)

・日の出  (祈る時間ではない)

・ズフル (午前、昼の祈り)

・アスル (午後の祈り)

マグリブ (夕方の祈り 5時ごろ)

・イシャー(夜の祈り、7時ごろ)

ノーベル賞発表!日本人受賞者の研究

秋のこのシーズンです、ノーベル賞が発表されました。
なんと、日本人の受賞者が2名出ました。
おめでとうございます!!素晴らしいですね。
 
坂口先生の研究、制御性T細胞の発見について、改めて調べてみました。
以前から免疫はとても興味があります。
 
1990年代に坂口志文先生が発見されたそうです。
 
どうやって発見したのか、調べてみました。以前から免疫機能に不全のあるネズミが知られていました。それを利用して、免疫が自らの体をも攻撃する仕組みを研究したそうです。そのときの坂口先生は制御性T細胞のような細胞があり、抑えるときにはそれがよくが働いているという仮説をたて、それを証明したのだそうです。
 
制御性T細胞はT細胞の中でも、特異的にIL2をかき集めることができるようです。この細胞にはCD25というIL2と親和性の強い受容体がたくさんあるとされています。だんだん難しくなる・・・(笑)。
この細胞が増えると免疫の働きを抑えることができます。私のイメージですが、それは、制御性T細胞がまるでIL2をモップのように吸い取ってしまうように感じました。攻撃するT細胞、つまりヘルパーT細胞やキラーT細胞が増えるのには、IL2が多くあることが条件で、それを先に取り去って抑制してしまうのだそうです。逆のときは、それが増えて強く働かせたりできるようです。これから詳しいことは、まだまだ先が長い。
 
でも、フムフム・・🤨・・なるほどです! 
1970年代からこのような細胞の仮説が出ていたのですが、しばらく見つけることができず、忘れ去られていました。坂口先生は、粘り強く取り組み、1990年代にとうとう証明できたそうです。科学者冥利と思います。
 
 
生命も、アクセルとブレーキを必ずもっているのですね。ホメオタシスを考えると、今では当たり前かもしれません。免疫の役割の大きさを考えると、ノーベル賞になる大きな発見ですね。
 
「ブレーキがあるから、アクセルを踏める。大事なのは、ブレーキだったりする訳だな」と私はむかし自動車関係の技術者だったので連想してしまいます。
 
物理学賞は残念で、2日後、京都大学の北川進先生です。1日おいて化学賞が発表されました。
「多数の微小な穴で気体などを吸着できる材料「金属有機構造体」の研究」の功績で受賞されます。
北川先生は、「役にたつものを作る」とおっしゃっていました。
そのメカニズムはあまり知りませんが、ニュースを聞いて、「あれを作ったのか」と思い出しました。
「水素吸蔵合金」で手にしたことがあります。
でも、どうやるのか、もうちょっと調べようと思います。
日経新聞電子版より
 
余談ですが、お二人とも、他の科学者から、「そのようなものはない」とか「嘘つき」、「できっこない」
と他の研究者から言われたそうです。プロ同士はやっぱり厳しいです。それでもやりきったのですね。
 
教育に関係する者として感じるのは、やはりレジリエンスは大事です。
「いくらディスられても、負けないぞー!」
非認知的能力高いお二人です。
兎にも角にも、「おめでとうございます!」
 
理科を愛する者としては、ちょっとぼやきますが、「10月だけ、ノーベル賞科学に注目されますが、もっと関心もてもらいたい」と思います。
 

お二人の先生のため、この建物で授賞式が行われます。その後、ディナーもあります。