
「日本人には一人称がない」
みんな = 私たち = 三人称的おてんとうさま
「子どもがケアする世界をケアする」
佐伯胖(さえきゆたか)編著 ミネルヴァ書房 (2017.8)
の中から
佐伯胖 著
第1章「二人称的アプローチ」入門
p70~77 より抜粋
「二人称的アプローチ」の難しさ
たとえば、「子どもに寄り添っている」つもりが、「同感的かかわり」となり、結果的に「アタッチメント病」に陥ってしまうことがありました。そしてそれが高じてくると、大人社会にも蔓延した「私たち中心主義」になり、山岸俊男が日本社会の特徵としてあげた「安心社会」思考でカラに閉じこもつてしまうことも警告しました。
この「安心社会」にはまってしまうのは、前節最後に述べた「おてんとうさま」が、「私たち」という閉じた社会の規範になってしまって、常に「上空」から「オマエはみんなと同じか」という監視のまなざしを向けられているのです。
私たちが他者との親密なかかわりを「同感的かかわり」と見なすこと(「アタッチメント病」)と、「安心社会的おてんとうさま」とは、ともに「私たち中心主義」という点でつながっているのです。したがって、本当の「二人称的アプローチ」を身につけるには、まずは、「私たち中心主義」から脱することからはじめなければなりません。考えてみると、「私たち中心主義」では、この「私」独自の主体性(一人称性)が弱いのです。自分の主体性があいまいだから、他者の他者独自の主体性の認識も弱く、きちんとした「相互主体性(intersubiectivity)」がもてないのです。
実は、私自身が、自分の主体性(一人称性)が「弱い」ことを痛感した経験があるので、そのことについてお話します。
2015年の10月に、私は何十年ぶりかで母校(箕面自由学園中学校)の同窓クラス会に出席しました。あまりにも「久しぶり」だったためか、「卓話」をするようにと頼まれました。電話で依頼されたとき、「卓話」って何のことかわからず、說明してもらったところ、いわゆる「テープルスピーチ」のことで、食事前の数分、自己紹介をかねて何かについて語ってくれということだと了解した次第です。以下がその「卓話」の抜粋です。
<日本人には一人称がない>
私は1966年にフルブライト留学生としてアメリカのワシントン州、シアトルにあるワシントン大学大学院の心理学専攻に入学しました。大学院生活は大変厳しいもので、膨大な文献を読んだり、レポートを書いたり、さらに、機関銃のようにまくし立てる講義を聰き取ってノートに記したりで、息つく暇もないぐらいでしたが、週末には院生の誰かのアパートなどで、缶ビールを持ち寄って談笑したりもしていました。そういうとき、「今週の○○という授業での△△の話、あれはどうなんだろう?君はどう思う?」などと話し合うのですが、ときには「サエキはどう思う?」と聞かれる。私なりに勉強したことをもとに、それについての最近の研究を紹介したりしはじめるのですが、何となく「うさんくさい」というような反応。こちらも何となく気落ちしてしょんぼりしていると、ある友人がこうはっきり言うのです。「サエキのいまの話は、その研究についての·What is Supposed to be true の話だが、サエキ自身がWhat is true.についてどう考えているかを聞きたいのだ」と。これは非常にショックでした。①私は長年、勉強というのは「何が真実とされているか」について調ベ、整理し、覚えることと思って一所懸命、努力しており、「何が真実なのか」を自ら問うなどということは、どこかエライ人、天才的なアタマの持ち主がやることで、我々凡人はそういうエライ人が唱えた「論」を「真実だということにして」覚えるだけだと思い込んでいました。
そこから脱して、自分自身で「本当だと思えること(納得すること)」を求め、’68年に修士論文、’70年に博士論文を書き上げて一年間のポスドクを終えて帰国したのですが、日本の心理学会誌の論文は、すべて “What is supposed to be true"ではじまり"What is supposed to be true” で終わるというものばかりで、論文執筆者自身が「本当に何が真実かをこの私が問う」という気迫も意欲もまつたく感じられないものばかりでした。
このことは、次の言葉に要約できるでしょう。日本人には、一人称がない。
たしかに、② 日本語の文章では、一人称なしで十分成り立つのです。ものごとを主張するときは、「そのことが真実だと私は信じる」と主張するのではなく、暗に「みんな、そうなんです(みんな、それを真実だとしている。”They suppose it to be true.”)」といういわば、「民が」という得体の知れない三人称複数の承認を期待して語るのです。私たちが学校で「勉強すること」というのは、小学校から大学、否、卒業後の社会でも、すべてと言っていいほど、「みんながそうしていること」を身につけることに専念しているのです。「みんな」がどうであるかで「·······すべきである」、「·······でなければならない」という「ベき·ねば」思考が生まれ、それを身につけることが発達であり、成長であり、人格形成であるとしてきているのです。(以下略)。
私たちが「みんな」というまなざしのもとで、「ベきである」/「ねばならぬ」に駆り立てられ、「みんな」に合わせようとしてしまうのは、「この私」という一人称的自覚が希薄だからだというのが、私の留学経験から得た結論でした。「サエキよ、サエキ自身は、何が本当だと思うのかを言え」と言われて、このワタシが本気で「何が本当か(What is true)」を問うてこなかったことに気づいた次第でした。
しかし、米国の大学院の授業では、「土砂降りの雨のなかをずぶ濡れになって歩く(彼らはそれをSwampingと言う)」ように、次から次へと膨大な量の文献を読まされるのです。それらすべてにまじめに取り組めば、「何が本当だとされているか(What s supposed to be true)」ばかりに関心を向けるのは、まじめな大学院生なら当然だといっていただきたいところです。しかし他の大学院生と話してみると、彼らは膨大な量の文献を「土砂降りの雨のなかをずぶ濡れになって歩くように」読みながらも、「この論文のこの考えはおかしい」、「この考えはすばらしい」、「この研究はつまらない」·······など、片っ端から「自分なりの評価」で読みこなしているのです。ですから、誰かが「論文についてどう思うか」と問われれば、即座に、「私はこの論文はすごいと思う」とか「まったくつまらない論文だ」とかが言えるのです。こんなことがどうしてできるのかがなかなかわからず、謎のままでした。
私がこういう「自分なりの鑑識眼」を身につけるにはずいぶん苦労をしました。それを身につけるためには、論文を読むとき、執筆者になりきって(いわば、執筆者と二人称的にかかわって)、「私がこの論文の執筆者なら、どういうふうに考え、どんな実験をやろうと思うだろうか」と考え、(13)「自分自身がその論文の執筆者になって」読むというクセを身につけることでむ。おそらく、米国の大学院生たちも、論文の書き出しを論文執筆者になりきってじっくり読んでから本文はさっと「ポイントだけ」抑えて読むので、読み終わったところで直ちに「これはつまらんー」、「これはすごいー」と判断できたのではないかと想像できます。
論文を読むとき、自らの「一人称性」をきちんと踏まえつつ(自分自身、Wbat is supposed to be trueではなく、What is trueを探求して)、そのうえで執筆者にできるかぎり「二人称的(共感的)」にかかわろうとしながら読み進めるならば、学術研究も「二・五人称的」に探求することになるでしょう。
「みんな」=「私たち」= 三人称的おてんとうさま
③ 私たち日本人が、いつも周辺の「みんな」を気にして、「みんな」のまなざしから「いかにふるまうべきか」、「どうであらねばならないか」ばかりを考えるというのは、その「みんな」というのが、「私たち」と呼ばれる共同体(研究者や実践者の場合は、同じ領域の同業者集団)の内側を意味してます。「私たち」といえば文法的には「一人称複数」ですが、その「一人称」(自らの主体性)自体が確立していないままの非人称的·匿名的な仮想主体であり、むしろ、「三人称的」なものです。それが「おてんとうさま」になりかわって、私たちに「ベきである」「ねばならぬ」を突きつけているのです。「おてんとうさま」が「北風と太陽」の「太陽」のような、おだやかでやさしい存在ではなく、厳しい監視と評価をくだす権威をかざした「おてんとうさま」になってしまつているです。
今日の日本の多くの保育者たちが、計画主義と評価主義の監視と管理にがんじがらめになって、每日提出しなければならない計画書と報告書に追われている現状を考えると、「北風と太陽」の「太陽」のような「おてんとうさま」のもと、二・五人称的まなざしで保育実践が行えるというのは、「夢のまた夢」にすぎないかもしれない······そんなことで良いはずはないー
これが一人称としての私の、二人称であるみなさまへの訴えであり、魂の叫びです。
脚注 (13)一般的に、学術論文は「はじめに」(intoduction)の節(書き方によつては、「背景」とか単に「序」とされる)で、執筆者がどういうことを問題とみなして、何を解明しようとするかが述べられています。そこで、「執筆者になりきって」論文を読むには、その「はじめに」を丁寧に読んで、あとに出てくる理論や実験を想像するのです。自分が執筆者だったら、どう論じ、どういう実験を考えるかを考えてみるのです。そのうえで、その論文の先を読んでいくことで、執筆者のみごとな論法やみごとな実験方法に感心するか、もしくは、「あてがはずれて」がっかりするかが決まります。
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<振り返り>
多様性と一人称
① 「勉強というのは「何が真実とされているか」について調ベ、整理し、覚えること」
私が探究学習に取り組み始めて、気づいたことが、1人称の学びだ。学びは個人のもの。みんなで学ぶこともあるが、学びは一人ひとり違っていて、最終的には学びは個人のものであると考えるようになった。
かつて驚きであったことがある。佐伯氏が述べたように、科学教育も(私の知っている英国の)学生が示す目標も「自分の考えを持つ」ことだった。著名な科学的論文に限らず、論文はエビデンスをもとに考察、結論を述べる。そのため信頼性も高い。しかし、その原点として何のために論文を書くのかとなると「自己主張」だというのだ。
学校の学びと「勉強」
② 私たちが学校で「勉強すること」というのは、小学校から大学、否、卒業後の社会でも、すべてと言っていいほど、「みんながそうしていること」を身につけることに専念しているのです。
「探究的な授業」を考えていく中で、教師の間でギャップを感じるのはここだ。一人ひとりが自立し、大人にになるために、教師は一生懸命取り組んでいるが、学びの背景にはいつも「みんながそうしていること」を意識して指導している。その根拠にしているのが、学習指導要領であり、教科書でもある。多くの教師が学習内容に意義を見出し、教える内容を丸ごと納得して取り組む授業はどれくらいあろうだろうか。自分もそうだが「試験に出るから、出ないから」で教える軽重を判断し、試験に出る問題を生徒が的確に解けるようになることが目標になる。生活指導では社会的規範となる。社会に出るため多くの上級学校や企業・組織に受け入れてもらうため、普段から(どうでもいいような)姿勢や態度を作法として指導することになる。
これからの時代、新しい学習指導要領が示す、多様な生き方に「個別最適化」した「ウエルビーイング」を実現するには、学校は態勢を整えているとはいえない。今の現実は、教師の多様な生き方に取り組む時間はごくわずかではないか。ぎっちり詰まった「指導の山」の中にどのようにこの取り組みを見出すことができるのだろうか。
息ぐるしさ
③ 私たち日本人が、いつも周辺の「みんな」を気にして、「みんな」のまなざしから「いかにふるまうべきか」、「どうであらねばならないか」ばかりを考える。
SNSが広がる以前から、周りのことを気にする習慣は広がっていた。簡単なことでは、体操着や上履き、制服などは細かいところまで気にしていた。学年でクラスもなるべく差がないように生活指導も行っていた。
特に「ずるい」という言葉は日本の社会では力を持っていて、教師に深く突き刺さり、(海外のような)指導の多様性、寛容な生き方を許さず、教師の主体的な指導を阻むことになる。「ずるい」によって公平さが求められるため、課題は白黒はっきりした解答が好まれることになる。異質なものを嫌うため、多様な意見を寄せ合って、問題を考えることは指導にそぐわなくなるのだ。
三人称的おてんとうさま = 「水戸黄門」・御公儀
この三人称的おてんとうさまを読んで、かつての「水戸黄門様」を思い出した。どこかで「御公儀様が見ていて、間違ったことをしてはいけない」というストーリーが好きな国民だ。「安心社会」が重要な国民性が連想された。そのため、上の者にみんなに従っていれば、お咎めもなく生きていける。実力よりも、先輩や実績が重視されやすい社会かもしれない。


















