根津山の日記

日々の生活をまとめます。世田谷代田、理科教育、戦前の教育

小学校の疎開先と移住先が一緒だった 1

思わぬことで、移住した飯田市と世田谷区に縁があることを知りました。
ここ半年ほど、東京の小学校について、戦前の記録を調べています。目的は小学校に理科室が設置される経緯が知りたいのです。そのようなことをしていると、副産物としてさまざまな東京の近代史を知ることになります。
そのなかで世田谷区の小学校には戦前の学童疎開について取り上げる資料がありました。学童疎開は市区町村ごとに行き先が決まり長野県でした。学校はその域内で割り振られ、個々の児童の行き先決められていたそうです。だんだんと戦争がはげしくなって、最初は長野県浅間町だったそうですが、食糧不足など厳しい状況になったので、変更したそうです。
 それが伊那郡だったのです。
自分すむ世田谷区の学区域の学童は、伊那郡の鼎村や松尾村、上郷村、喬木村、川路村などに移り住んだのです。そこでは一つの学校の学童が、いくつかのお寺にあずけられていて、そこに数名の先生が付き添ったそうです。
「私の周りに住んでいる方の中には、小さい時に鼎村に疎開していたかもしれない」と思うと、自分が長野の飯田市で活動していることが、何か縁があるのではないかと思いました。
写真をみて、平穏そうに見えますが、物語ることがあります。子供の生活はどれほど厳しいことだったか、今となっては想像つかないこともありますが、辛いとき、なんとか命をつなぎました。「この子たちの子孫が世田谷の今をつくっているのか」と思えてきました。東京の住人の一人として、恩返しのような気持ちになりました。
飯田市鼎に住むようになって、「偶然」はいろいろあると思い、またひとつ、つながりを深く知る資料でした。