思わぬことで、移住した飯田市と世田谷区に縁があることを知りました。
ここ半年ほど、東京の小学校について、戦前の記録を調べています。目的は小学校に理科室が設置される経緯が知りたいのです。そのようなことをしていると、副産物としてさまざまな東京の近代史を知ることになります。
自分すむ世田谷区の学区域の学童は、伊那郡の鼎村や松尾村、上郷村、喬木村、川路村などに移り住んだのです。そこでは一つの学校の学童が、いくつかのお寺にあずけられていて、そこに数名の先生が付き添ったそうです。
写真をみて、平穏そうに見えますが、物語ることがあります。子供の生活はどれほど厳しいことだったか、今となっては想像つかないこともありますが、辛いとき、なんとか命をつなぎました。「この子たちの子孫が世田谷の今をつくっているのか」と思えてきました。東京の住人の一人として、恩返しのような気持ちになりました。
飯田市鼎に住むようになって、「偶然」はいろいろあると思い、またひとつ、つながりを深く知る資料でした。