飯田に行き、飯田市立鼎小学校の「創立百周年記念誌」が手に入り、調べていました。理科、理科室については目ぼしいものがありませんでした。
●疎開の様子
その中で、戦時中に鼎小学校が世田谷区守山尋常小学校の児童の疎開先として受け入れていた記事が見つかりました。これまでとは違う写真も残っています。その記事を引用してみます。
<以下引用>
学童疎開。昭和19年戦局はいよいよ不利となった六月末、政府は「一般疎開ノ促進ヲ図ル外、新ニ国民学校初等科児童ノ疎開ヲ強度ニ促進スル」を閣議決定した。
鼎へは世田谷区守山国民小学校の3年生から6年生まで132人が疎開した。そして、3・4年と5・6年の複式授業をおこなった。宿泊先は法蔵寺で、先生5名、寮母6名であった。昭和19年8月19日来町、昭和20年11月11日帰京。
疎開先における学童の生活は貧しいものであった。食費は一日二十三円でそのうち十円は父兄負担であった。学童は常に食糧や薪炭の調達に使役され、職員は生活物資の収集に、日夜東奔西走していた。(引用 「鼎小学校創立百周年記念誌」より)
●法蔵寺とはどのようなところだったのか
寺のことを調べてみました。私はまだ鼎(かなえ)に移り住んで2年ですので、詳しい土地勘はありません。
調べてみると、納得できました。旧鼎町の中央にあって、小中学校からも近く、町でもっとも大きな社のお寺でした。宗派は浄土宗です。この石垣の階段は今もそのまま残っています。