新入学児童の常識調
大正7年7月30日
八幡尋常小学校
●本年4月新入学児童の常識調をしましたら、左のような結果でありました。
児童総数43名の内
調べた内容、問 |
知る者、できる者 |
知らない者、できない者 |
村の名を知る者 |
32 |
11 |
自分の名を言い得る者 |
37 |
6 |
自分の年齢を知る者 |
31 |
12 |
父母の名を知る者 |
26 |
17 |
家族の数を知る者 |
14 |
29 |
数を数えられる者 |
26 |
17 |
数えた数について |
最少3まで、最多100まで |
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100まで数えた者 |
4 |
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自分の名及片仮名を記し得た者 |
6 |
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もちろん、社会の感化ということも大いにあるでしょうけれども、主に入学前の家庭教育の親兄弟等のしつけがどれほど施され行き届いてあったかということが略略しることができたわけであります。
これによって、入学前家庭に於ける児童の教養のゆるかせにならぬことをご承知置き願いたいと思います。なぜならば家庭の教養は実に学校教育の土台となるべきものであるからであります。
(大正七年7月 「八幡学報」創刊号 八幡小学校)
(カタカナをひらがなに、原文を修正しました)
(文章を表形式にして見やすくしました)
(出典:世田谷区教育委員会 「世田谷区教育史 資料編三」 p155より)
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この調査は大正期に尋常小学校に入学する児童の調査をした、たいへんめずらしく、貴重な調査の結果です。(どう質問したかなど詳しい方法はのっていません。)
大正七年と記載され、京王線が通って間もない頃です。八幡小学校の学区域は都心からの新住民が移住してきて、人口が激増した地区です。近代化が進んだとはいえ、あたり一面農作業をしていて、都市近郊農業が行われていました。
さまざまなことで家庭教育ができていたのか、興味がわきます。貧しい状況で厳しいことがあったのかと想像させます。ただ、詳しい情報はこれ以外にないので、いろいろ思い浮かびますが、推測の範囲でしかわかりません。
以上のような推測ができますが、戦前の世田谷区の様子を知る、貴重な資料です。