根津山の日記

日々の生活をまとめます。世田谷代田、理科教育、戦前の教育

積み残した教科書

 

昔は授業で教科書を全部取り組むことはまれだった。持ち越し、積み残しは普通だったのだ。

昭和のころは、先生はそれほど見通しをもって授業を計画していたのではなく、適当に授業を進めて試験で辻褄を合わせているというのが実態だった。今でも、そのようなことは散見される。

 

教える方法もあまり上手ではなかったが、それでよかった。魅力的な先生であることが大切だった。個性的で、それぞれで存在感がある先生がいたし、それはそれでまわりも認めていた。

 

しかし明らかに、窮屈になった。

 

タブレットが導入されて久しくなる。おそらく日常化する。そして、魅力を失うのだ。当たり前になって、すこし型落ちしたタブレットはお荷物にだんだんなるだろう。当たり前になってしまえば、魅力を失い、他に関心がいく。

 

壮大な社会実験・・・一人一台端末。これを世界は興味深く、どうなるのか横目で見ている。このような国家レベルで社会実験している例はほかではない。海外で一斉にタブレットを配るなど考えられないから、どうなるのかと思っている。シンガポールや香港、台湾など小国なら別だが。

 

★ 最後は先生の魅力ある授業に戻るしかないだろう。1時間、惹き込むような話、興味をそそる発問、課題、鮮やかな提示、みんなでやる楽しい活動やレク、それはどんな指導法にも勝るお多くの人は感じている。

 

見通しばかりもとめ、多くなりすぎた単元は整理すべきだろう。生物ではすでにパンクしている。では、どのように教えていけばいいのだろうか。それは簡単だ。大切なことから教えればいい。その発達段階にふさわしい内容で、面白いこと、先生が教えたいこと、それを続ければいいだろう。

 

タブレットはいずれ、一人一台が当たり前になるので、個人で選ぶ時代になるだろう。ほしい人は上級のもの、あまり必要のない人は廉価なものを選べばいい。所詮は文房具と辞典、計算機程度になるのではないか。