根津山の日記

日々の生活をまとめます。世田谷代田、理科教育、戦前の教育

飯田市 浄土宗法蔵寺 を訪ねました。

昨日法蔵寺を訪ねました。

今年になって、鼎や松尾と世田谷区代田にある世田谷区立守山小学校とが、戦争中昭和19年から20年に集団疎開で繋がりがあることがわかりまいた。

長野県と世田谷区の小学校の多くは戦争中に集団疎開の地域として関係がありました。

法蔵寺は飯田市鼎地区にあります。守山小学校の集団疎開の本部としての役割もありました。

 

小学校1年から6年までの数百人の児童が疎開してきました。

法蔵寺を訪ねてみると、たまたま住職さんがいて、お話ができて、中に通されてお堂の中も拝見することができました。

法蔵寺には130人ほどいたそうです。

寮母が6人ほどいたそうです。先生が3名ほどいました。本堂、厨があり、そこに集団生活をしていました。仏様の周りに布団を敷いて寝ていたそうです。

厨には、大きな釜と鍋があり、ご飯と味噌汁を130人分ぐらいできたそうです。給食の鍋のようなものだそうです。

集団疎開の子どもを預かったのは現在の住職の先代の方です。

現在の住職は兄弟9人いて、末のお子さんだそうです。昭和20年生まれで、体験として集団疎開のことは覚えていないですが、話はいろいろ聞いています。27歳で住職になったそうで、戦後にしばらくして守山小学校の児童だった人が13人東京から再訪されたそうです。みなさんには懐かしさがあったそうです。世田谷区の職員の方がしばらく一人で毎年法蔵寺を訪ねていたそうです。

お寺に疎開の頃の名残は、鐘塔、石垣、階段などです。お堂もだいぶ立て替えたそうで、厨は新しくなりました。寺の周りは、ほとんど家がなくて、少し下がったところに3軒ほど家がありました。お寺のとなりは、伊那線(私鉄)で今のJR飯田線がすぐにあります。列車の音がすぐそこで聞こえます。北側の窓には鬱蒼とした竹林があったそうで、そのうしろには太い幹の杉が3本立っていたそうです。そこにはお墓があって、子どもたちはそこで遊んでいたそうです。

本尊の3体ある仏様の本尊の阿弥陀様は昔のままだそうです。仏様の後ろの祭壇は昔のままだそうです。

先代の住職は疎開してきた子どものために米を買い出しに行ったそうです。遠くは飯島町あたりまで出かけたそうですが、途中で、警察がヤミ米を取り締まっていて、泣く泣く米を捨てたり、置いてきたりしたそうです。とにかく食べるものを確保するため、地元の住職自ら動いていたようです。夜になると、紙芝居をして面白い話をしたそうです。

 

長野の人の人情が伝わってきて、私は胸がいっぱいになりました。

 

 

 

守山小学校から戦後に寄贈された写真です。かつての面影があります。

 

法蔵寺 山門