根津山の日記

日々の生活をまとめます。世田谷代田、理科教育、戦前の教育

母、祖父、その家族の進路選択

2023年7月25日(火)

科学と学びCosmosコスモス(#176)

科学アドバイザー

髙橋和光

◉ 100年前 祖父の進路選択

祖父の記憶、家族の記憶をたどってみたい。祖父壽二は愛知県三河生まれと聞いている。東京理科大の前身、物理学校を出て、神田三河町に電気製品の製造、販売の会社を起こした。それが、大正6年。会社の沿革によると、

”壽二により、●●社として創業(神田三河町)照明器具、電気器具の製造販売を行う。従業員数:約15名”

とある。そのころは、会社と住居が同じ敷地にあった。母は神田で大正11年(1922年)に生まれている。詳しい家族構成は聞いたわけではないが、男子4人、女子3人いたらしい。長男の洋三は学徒動員で海軍に士官として配属され、太平洋戦争で(輸送船らしい)で戦死したと聞いている。

小さい頃近くにある祖父の家に行くと、床の間の上に伯父の遺影があった。白い軍服姿だった。母の姉長女についてはくわしいことはきいていない。他の叔父、叔母には自分が生まれてから、いろいろお世話になったが、あまり子どもの頃のことは聞かなかった。

学校の話題に戻すと、この伯父の洋三も含めて、祖父の子どもは私学の中学校、高等女学校に進んだことは知っていた。このころ、都心部にいる中間層や軍人の多くが進学先として私学を選択している。昭和の初期は、公立の尋常小学校は児童があふれかえり、校舎も建て替えが進まないところがあった。特に都心は手狭であった。中には二部制を引いて、半日の授業となっていた。そのような状況では、私立を小学校から選択するのも親として可能なら考えるだろうと思う。

戦前なので、家族の兄弟姉妹でも順序があった。長男は小学校から慶應幼稚舎に入れている。家を継ぐために、長男は特別だった言っていた。次男、三男、四男も進学するが、伯父は特別な印象がある。

母は次女だったが、長女は小さいころに亡くなっていて、まるで長女のようだった。母は都内の私立高等女学校へ行き、お茶、お花、お琴などを内弟子になって住み込みで習っていた。19歳で父と見合いをして、結婚した。ときすでに太平洋戦争がはじまるころだった。同じ兄妹弟でも男女の区別は著しく、戦後は経済的に苦しかった。

母の妹の叔母は世田谷に引っ越してから学校に通ったので、神田からではなく、世田谷区の鴎友学園に通う。すでに小田急も開通していた。

そのほかの叔父はどこに進学したかは詳しく知らない。ただ、立教ではないかと想像している。祖父は地方からきて、事業を立ち上げ、中間層として世田谷に引っ越す。そして都心の私立学校の小学校に通わせていた。このような家庭は山の手では、そのころから通常の光景になっていて、現代においても、井の頭線小田急線に朝7時ごろから、大勢の児童生徒が乗車している。小さい児童は待ち合わせして、保護者が2、3人の子どもを一緒に連れて通っている。そして、叔父の家族は祖父の事業を引き継ぎ、いずれも子どもを私立にいれている。

念の為、私の家族は叔父とはまったく別で、戦後は兄姉も多く経済的にたいへんで、私立どころではなかった。