根津山の日記

日々の生活をまとめます。世田谷代田、理科教育、戦前の教育

【化学】 エタノールの蒸留の実験を振り返る 山本喜一さんの論文とともに

1 蒸留の実験に共感

「理科教室」の論文を読んで、直接著者に感謝の気持ちでハガキを書きました。それは、2024年2月号、3月号に掲載された論文を読んで、内容はその論文は中学2年生の「蒸留の実験」です。この単元に長く疑問に思っていたのですが、論文ではくわしく解説し、誤りも指摘していて、思わず書きました。

著者は千葉県のアルケミストの会の会員の山本喜一さんです。山本さんとは20年ほどまえに千葉県館山で行われた盛口襄さん主催の研究会「安房科学塾」でお目にかかったことがありました。また、東京で行われた科学体験活動でもお目にかかり、お名前はよく知っていました。しばらくお目にかかっていなかったですし、私のことは覚えていないだろうと思いましたので、文末にあった学校に山本さん宛のハガキを出しました。

2 どこが問題だったのか

論文の内容について触れます。エタノールの蒸留の実験は、水溶液から目的の物質を沸騰させることで濃く取り出せることを学びます。状態変化では最後の方で必ず取り上げる学習です。そこには、長年見過ごされてき問題点がありました。教科書や資料集などで示されているグラフに誤りが含まれています。グラフは加熱時間と温度変化を表すのですが、変化を示す線が、蒸留するときの枝管の口の温度なのか、エタノール水溶液の温度なのか、どちらなのか曖昧にしていることが多いのです。私はこの誤りに気づいてから、周りの先生に尋ねてみたり、相談したりしましたが、よく理解してもらえず、ずっとモヤモヤしていました。

赤ワインの蒸留 センサを2本使って測定

3 センサで実験して気づく

25年ほど前、この誤り気づきました。そのころ、私のテーマで、センサによる実験を試しているときで、温度センサで複数点の温度を同時に測っていて、気づきました。

そもそもは、蒸気の出方について詳しく知りたいと思い、最初は3本のセンサを入れて同時に変化を測ろうと考えました。しかし、枝付きフラスコの口が小さかったので、ゴム栓にあけられる孔が2つしかできず、結局センサを2本にして、蒸留の実験を水液液と蒸気の温度を同時に測ることにしました。1本はエタノール水溶液、もう1本は蒸気の温度をとりました。この2つの温度変化を見ることで、教科書の温度変化の解釈に誤りがあることがわかりました。詳しいことは山本さんの論文に書かれてますので、ぜひ読んでもらいたいです。

エタノール水溶液の蒸留の温度変化 青:溶液 赤:蒸気 ワイン濃度11% 50ml

3 論文が明快だった

この問題点について、私自身も機会を見て発表していましたが、広まることがありませんでした。そこでは、問題点を示しましたが、分析や解釈をしていませんでした。誤っていることについて、教材を担当された方に指摘もしませんでした。もっと詳しく研究し、正しく解釈できていれば、もっとできることがあったように思います。それに対し、山本さんの論文の解説はわかりやすく、蒸留の実験条件もさまざまに変えて分析してありました。そして、グラフの問題点を教材に関係する方に直接指摘していたのです。私は読んだあと、とても晴れた気分になりました。私にとって、曖昧になっていたことが、整理されて学びがたくさんありました。

4 著者にメッセージ

さて、私自身の経験からですが、日頃の実践を現場の先生が論文にして投稿するのはたいへんな労力です。多く方は正式な研究者ではないので、見返りはありません。投稿しても反響がなければ、孤独感や自己満足と過小評価してしまうかもしれません。余計なことかもしれませんが、著者に読者として学びになったことを伝え、少しでも感謝して、著者の次の活動や論文を書くことへの「やる気」「後押し」になればと思います。どうしたらいいかと、思いましたが、できる方法は多くないので、できることとして、ハガキを所属の学校向けに送りました。読者の気持ちが伝わって、もっともっと研究が活発になると良いと思っています。

 

 

 

土門拳記念館に訪問

土門記念館訪問 20240315

はじめて酒田市に来ています

新潟県柏崎市の佐藤さんのFBに土門拳記念館について紹介があり、土門拳がみたくなり休みをとって来ました。久しぶりに夜行バスに渋谷から乗りました。少し疲れますね。酒田市に来るのは初めてです。それよりも何よりも山形県に来るのが初めてだと思います。福島県会津までは来たことがあります。思ったよりも遠いものです。

土門拳記念館

思い出の作品

15歳頃でしたが、「筑豊のこどもたち」や「こどもたち」や「風貌」、「古寺巡礼」、「棟方志功」などが学生時代に図書館で引っ張り出して、眺めていました。「筑豊のこどもたち」はとても心に焼きついています。「古寺巡礼」は室生寺です。何か絵葉書の印象が残っていて、旅行で行くたびに、記憶のどこかにある土門の作品を重ねてしまいます。古寺巡礼を雪景色を最後に撮って、全てを終わらせたことを知りました。

新たに知ったこと

土門拳の背景や生い立ちについては知りませんでした。ちょっとメモしておきたいです。

・1909年山形県酒田市で生まれて、7歳に東京に引っ越し、その後横浜に移り転々とする。

・神奈川県立第二中学校(現横浜翠嵐高校)に入る。経済的に苦しくて、1年で退学しようとしたが、先生から退学を止められた。このころ、生徒の半分は途中退学するくらい、自主退学はめずらしくなかった時代。よほど存在感あったのだと思う。

・10代では画家にを目指していて、17歳で横浜美術展覧会に「薔薇」の油絵を応募して、入選していた。主催は安井曾太郎

・19歳で画家志望をあきらめた。

・1933年宮内幸太郎の写真場に内弟子として住み込み、写真の基礎を学ぶ。

名取洋之助が主宰の「日本工房」に入社し、報道写真家として1935年〜1938年まで活動する。名取洋之助とは作品の権利で対立して、退社してしまう。

・戦後に独立している。

 

土門ってどんな写真家か (感想)

報道写真家としての「リアリズム」を追求したこと。

芸術家、画家的センスで撮影した。肖像の数も多い。油絵を描くこともあった。

スナップ写真では演出を絶対にしない。(戦前のプロパガンダ作品を反省した。)

仏像の撮影では、他のプロでもできない撮影を試みて、仏像に迫ることができた。特にライティングにたいへんこだわり、他人に任せることができず妥協を許さなかった。

土門拳記念館(設計 谷口吉生

 

他人事ではない・・・ 「独裁体制から民主主義へ」

ジーン・シャープ著 「独裁体制から民主主義へ」

 解説 中見真理清泉女子大学

(100分de名著) Eテレ 2023年初回放送より

 

Gene Sharp (1928~2018) USA

1928年オハイオ州生まれ

マハトマ・ガンジーの研究を起点に、独自の非暴力を体系化し、戦略的非暴力を提唱。

アルバート・アインシュタイン研究所を設立して

非暴力闘争の提言・指導に尽力し、

世界各地の民主化運動に多大なる影響を与えた

(2023年1月号 紹介文より)

 

第1回 独裁体制はみかけほど強くない

Gene Sharp イギリスに留学  「非暴力の政治学」でオックスフォード大学から博士号(1960年)

アルバート・アインシュタイン研究所の設立。兵役拒否し、収監される直前、そのとき、アルバート・アインシュタインから励ましの手紙をもらい、研究所の名称になっている。

この80pの小冊子はミャンマー民主化運動をきっかけに書かれた。

補佐には、ハーバード大で出会った元アメリカ陸軍大佐 ロバート・ヘルヴィーがいた。彼とミャンマー民主化運動の支援と理論の検証に出かけたことでこの本ができた。

 

独裁者を甘く見てはいけない。 「独裁者は狡猾で残虐である。」シャープは現実主義者である。しかし、独裁者は決して強靭で永遠ではない。いかなる独裁者も不死身ではなく、支配者を支えているのは、被支配者たちによるので、その関係が崩れとき脆くなった独裁者を打倒することができる、とシャープは訴える。

 

服従してしまう要因

⒈ 習慣

⒉ 制裁への恐れ

⒊ 道徳的義務

⒋  自己利益

⒌ 支配者との心理的一体感

⒍ 無関心

⒎ 不服従への自信の欠如

 

「恐怖感と従順の癖を克服すること」

抵抗運動には民衆や市民機関が「大衆規模」で臨むことの重要性を説いている。普通の人が参加できる抵抗運動をめざし、それには大きなことから小さなことまで多くの方法があることを具体的に示した。

「非暴力行動198の方法」

ただ抵抗するのではなく、その手段を吟味し、それを適切に使い続ける。そうしなければ独裁打破の道は拓けないと強調する。人は暴力を必要悪と感じて、現実的な問題として暴力的手段に頼ってしまう。そのため、シャープは暴力に代わりうる抵抗手段として「戦略的非暴力闘争論」を打ち出した。戦略的に抵抗するので、感情に流されず、頭を使って冷静に抵抗を続けることが求められる。

 

 

第2回 非暴力という「武器」

・クーデターも選挙も問題を解決しない

・「外部の力」(外国の支援)への過度の依存は禁物

・非暴力闘争は「暴力なき戦争」

・独裁体制の力の源を断つ

・「政治的柔術

・周到に準備せよ!

・計画を立てない活動家たち・・・非暴力思想を強く持つ活動家たちは、往々にして、ともに闘争していくための戦略や訓練を計画的に考えるという発想が生まれにくいことがある。目前の事象にとらわれて、発想が戦術にとどまり、戦略的思考には至らない活動になっている。

 

 

 

第3回 非暴力ゆえの勝利

・まずは小さい行動から

・独裁者の力を奪う「隠れた不服従

・運動の核となる組織を強化する

リトアニアの独立回復運動

  (外部からの圧力に屈しない運動)

・連携を深めるバルト三国

・活用されるシャープの非暴力闘争論

・非暴力を貫いたリトアニア市民

・窮地のゴルバチョフを救ったもの

・信念と勇気 

  (失敗もある。常に勝利するとは限らない。・・・・過去の失敗の事例を注意深く分析することで非暴力の戦略を高めていくことです。)

 

第4回 新たな独裁者をうまないために

・新しい体制の船出

・永続性のある民主主義の確立を目指して

・シャープの理論の問題点

・理論と現実のギャップ

・独裁体制側もシャープ理論を研究

・非暴力闘争の勝率

・絶えず闘い続ける

・身近な抑圧者に「NO」を突き付ける

 

考えたこと

闘争は遠いせかいのことではなく、抑圧されている人がいるならば、身近なこととしてとらえることができる。何も一方的に勝利するのではなくても、戦略を考えて非暴力で闘い、世の中を変えていくことができると思う。自らが多くの人と手を携えて獲得した権利や社会構造は永続的に続くことになる。

あきらめるのではく、社会は良くなっていると確信して、行動の目標を見定めていきたい。

教えない「教える授業」2

教えない「教える授業」ーすぐれた教育の実践に学ぶー 

佐久間勝彦 著(一莖書房) 

第3章 教えない「教える授業をつくる より

 

佐久間氏の主張

・アクティヴラーニングやコーチング、ファシリテーターという教師の授業で果たす役割について、また、法則化という授業を一般化、などに疑問を投げかけ、否定し、深く切り込んでいる。

・対話ということを、会話、対論と比較し、対話の意味を深く掘り下げ、重要さを認識させてくれる。

・日本のするれた実践を否定するのではなく、活かす姿勢を求めている。それは、かつて、綿引弘文、武田常雄、齋藤博喜など、優れた実践には「教えない授業」がすでに存在していた。

 

「あとがき」から

子どもの未来を見据えて冷静沈着に教育の在り方を考えるとき、何よりも心を砕かなければならないのは、教師が教えることの「質」であり、子どもが学ぶことの「質」である。豊饒さを誇る「授業といういとなみ」に拙著が目を啓く一助を果たすことになれば、この上もない幸せである。

感銘を受けた文章

武田常雄の実践は、授業を展開するにあたっては、とことん教材研究を行って教材の解釈を深め、特に発問については厳しく考える。

 

積み重ねたのは練習ではなく稽古であった。齋藤喜博は、「そのときどきの教材や自分や子どもたちの高さに応じて、そのときどきの教材や自分や子どもと衝突しながら、そして眼前の子どもたちにむきあって、自らの方法を生み出そうとする稽古の気構えが欠かせない。」

 

優れた問いとは、①わかりやすさとわかりにくさが混在している。②わかりやすい部分を踏み台にして、わかりにくい部分に挑戦する

 

わかってきたこと

教える「教えない授業」の本質的な部分を感じた。

一回、一回の授業に真剣で新鮮な気持ちで向き合う。一般化しない態度が見て取れる。

とことん教材研究を行って、発問についてはとても深く考えて、厳しくのぞむこと。

 

これから、自分の判断の言葉として、

「受験、学習指導要領などを抜きにして、学習する意義を子どもが感じるような授業にすることができるか」を問うのである。そこには、「学ぶべき教材である」という教師の授業観が自らの言葉で積み上げていく、稽古の気構えが求められている。

 

 

<<参考>>

第3章の構成

  • コーチ ー大切な人をその人が望むところまで送り届けることー
  • 「握る手」の主体性と、「握り返す手」の主体性
  • 視覚に障害があるランナーに伴走できる人は、フル・マラソンが走れる人です。
  • 好きでしょった荷物は重くない ー  綿引弘文実践に教えられるフィールドワークの楽しさ  
  • 対話的学びをはぐくむ   ー 「会話」でも「対論で」でもない「対話」
  • 「教える」から身を退く、「教えない授業」「教える」に迫る、「教えない授業」
  • 武田常雄が「教えない」授業のなかで、教え磨いていること
  • 齋藤喜博と向山洋一    ー 稽古に生きる人・練習に生きる人
  • ナビゲーター  ー さまざまな見方を引き出す「問い」を武器に、教材の核に迫る

 

 

敗れた「正露丸」とテフロン調査 

The Invention 「発明」誌

この「発明」という雑誌は知的財産権を扱う法律(特許法など)に関わる専門の広報誌らしい。飯田の少年少女発明クラブで、「読みますか」と数冊渡された。初めて知りました。その中の2冊を東京に帰るバスで目を通した。くわしいのはいいが、専門的なところは法律のことで、難解なところも多い。それでも、知らない世界を知り参考になる。

 

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『ニッポンのモノづくりと知財部を応援する 月刊「発明」』 2023年10月号 

 

正露丸」は商標か否か

2023年10月号に正露丸が商標、ブランドとして保護されるかどうか詳しく紹介されていた。この正露丸は大正時代の「クレオソートを主剤とする胃腸丸薬」、下痢止めで知られている。T社の正露丸の商標の使用について独占的立場を保護するための訴えがされた。正露丸について大きく市場を占有するT社は商標を持っていて、1954年と2005年の2回にわたって商標の侵害を主張した。しかし、裁判になり、1回目で地裁は原告T社の主張をは認めたが、高等裁判所は斥けて一般名称という扱いとした。上告し最高裁でも確定した。商標の権利はT社にまだ残っているが、ブランドとして権利はない状態になっている。2005年は「正露丸」のパッケージの商標を侵害しているということで争ったが2回目も裁判では負けてしまった。この2回目の裁判で「知的財産権」で商標について、市場でのアンケートを判断材料としていることを知った。2回調査を実施して証明しようと試みたが、2回とも調査方法などの観点から証拠として採用されず、パッケージの「正露丸」が類似していることで権利を侵害したことにはならなかった。

「テフロン調査」と「サーモス調査」

このときに行われたのが日本国内で行われた「テフロン調査」である。(こんな調査があるのかと、初めて知った。なかなか面白い名前がついている。)アメリカのデュポン社が権利を有するフッ素樹脂加工のことを「テフロン加工」と呼ばれている。これが広く普及したため、この商標が市場で一般名称として扱われている。このことから、商標がブランドとして扱われているかどうか調査するのこう呼んでいる。テフロンのように広く使われている名称は多くある。例えば、「セロテープ」「ホチキス」「ポストイット」「ヤクルト」「メンソレータム」などがあたる。この裁判ではテフロン調査を行い、T社の商標がブランド名として認知されているかアンケートで調べられたのだ。「「テフロン」はブランドの名称でしょうか」というような質問が市場で調査されました。

正露丸のケースでは裁判所に証拠として採用されなく、T社の権利は認められず敗訴してしまった。ブランドとして多くの市場を占有するから、商標として保護されるかというと、そうではないことだった。私にとっては、とても興味深い展開だ。

もうひとつ、一般名称の代わりにブランド名をが使われているか調べるのが「サーモス調査」として名付けられている。テフロン調査とはまったく異なった手法で行われている。おおよそをいうと、「魔法瓶」が一般名称であるが、魔法瓶と呼ぶ代わりに「サーモス」呼ぶことがある。それが一般名称なのかブランド名なのかを調べる質問調査がアメリカで行われた。このことでサーモス調査と呼ばれるようになった。結果は「普通名称」ということで、thermosという名称を一般に使って良いとなり、Thermosはブランド名であると、何とも調整が効いたけっかとなったらしい。

ただし、正露丸のこの案件では、サーモス調査を商標の調査に使わなかった。

 

おわりに

知的財産権とは発明にとって重要なしくみだと思う。法律的な内容であるんで、難解なのだが発明を考えるとき他人の考えや創作に敬意を払うこともわかる。基礎基本であるが、さまざまな創造を扱うSTEAM教育に組み込みたいとと思った。

 

教えない「教える授業」ーすぐれた教育の実践に学ぶー 第3章から 「対話について」

教えない「教える授業」ーすぐれた教育の実践に学ぶー 

佐久間勝彦 著(一莖書房)より

第3章 教えない「教える授業をつくる

 

この本の主張は第3章に集められていると思う。平成二十九年度告示の学習指導要領で改訂の基本方針として、「主体的・対話的で深い学びの実現に向けた授業改善」を掲げた。佐久間はこの基本方針について丁寧に自分の考えをまとめ、吟味している。

例えば、「対話的学びとは何か」について次のように解釈している。

ただのおしゃべりや対論とは違うと言う。

「話し合い」として括られる活動には、対話のほかに会話・対論などがある。 「対話的な学

び」というのは、「会話的な学び」とは違うであろうし 「対論的な学び」でもないだろう。 類

似する他との違いを明示しないと、「対話的な学び」はどこに向かって行ったらいいか道に迷

う。うすっぺらな話し合いに堕していったり、意図を違えた方向へと進んでいったりしかねな

い。

平田オリザ氏の「対話」を引用し、

会話=価値観や生活習慣なども近い親しい者同士のおしゃべり。

対話=あまり親しくない人同士の価値観や情報の交換。あるいは親しい人同士でも、価値

観が異なるときに起こるその擦りあわせなど。

哲学者中島義道氏を引用し、

「対話」は一人ひとりの「抱く意見の『小さな差異』 を確認しながらゆっくりと忍耐強く進む」と、静穏に進むその場の空気に目を向ける。また「自分の固有の状況・体験・感受性をまるごと引きずりながら、しかも客観的真理を求めて語り出」していくと述べ、「自分」を大事にしながら思索を大きくひらいていく内面にも目を注ぐ

をあげている。そして、中島氏の12の対話の原理のうちから、、

○相手との対立を見ないようにする、あるいは避けようとする態度を捨て、むしろ相手との対立を積極的に見つけてゆこうとすること

自分や相手の意見が途中で変わる可能性に対して、つねに開かれてあること

の2つを取り上げている。

 

 

偶発性低体温症

災害関連死を防ぐため

能登地震によって被災者への対応として、災害関連死について注意が払われています。被災地で生き残った後に十分に手当てができず、体調のすぐれない方、高齢者や障碍者などで起きているようです。東北大震災、阪神淡路大震災など大きな災害が冬に起きて、避難所での災害関連死がたびたび起きていることがわかりました。災害関連死の原因で取り上げられているのが、低体温症やヒートショックです。資料によると、災害で起きる低体温症は災害などの時、非常に寒い環境で身動き取れない状態を指しているようです。避難所の環境が十分ではないため、夜間や雪の寒さで体温が下がってしまった患者のこととを言います。これらを「偶発性低体温症」と呼んで、環境による低体温の症状を示しています。

住環境の重要性と偶然性低体温症

もしも地震が起きたときに、自分の身の回りでおきると考えたからです。避難所生活がとても寒い地域で長く過ごさなければならなくなると、偶発性低体温症に気をつけることを知りました。災害関連死が住環境とつながっているのです。これは国連機関のWHOから勧告が出されいます。それを調べてみました。

WHOは住環境について資料を出している

WHOでは1991年に、衛生健康の望ましい室内環境について勧告する資料を出しました。

この当時の勧告の目的は途上国を中心に住宅環境が整わない地域で改善を促すためです。現在の日本でも、冬場の暖房施設は十分とは言えせん。また、冬に被災したときは途上国と同様の環境で住まなければなりません。この勧告が参考になると思います

この中では、健康的で快適な生活環境のため室温は18℃〜24℃としています。高齢者や乳幼児では20℃以上が良いとしています。あまり低い気温の部屋で過ごすのは、低体温症やヒートショックの恐れがあると言うのです。

(WHO Indoor Environment: Health Aspects of AIR Quality, Thermal Environment, Light and Noise. 1991)

 

偶発性低体温症とは何か

この症状について救急医療の専門家である阿南英明氏の論文を引用すると

30℃以下になると、震えなくなり体温による重症度分類は様々あり統一されていない.生理的反応等から筆者が適当と思われる分類の一例を提示する.

・軽症(34℃以上):震え<shivering>

・中等症(30℃~34℃):意識障害,頻脈,過呼吸

・重症(30℃未満):言語反応消失(GCSのV1),徐脈,呼吸回数減少,心室細動(VF)

軽症から中等症では自己の体温調節機能が残存しており,震え<shivering>が生じて基礎代謝を高めて熱産生をする.よってこの段階では自力で復温する能力があると言える.

一方,重症では自己の体温調節機能が破綻し,震え<shivering>が出現しない.

30℃以下では心筋の被刺激性が亢進し粗暴な体位変換刺激によってVFが発生する.また,基礎代謝が高度に低下し,バイタルサインが微弱になっているが,生命がかろうじて保たれている場合がある.よって重症の低体温では徐脈,呼吸回数の低下が著明なので,一見心肺停止と間違えられる.呼吸・脈拍確認は通常より長く30~45秒かけて慎重に行う.

(日本内科学会雑誌第102巻第1号・平成25年1月10日)より

とある。

深部体温が30℃より下がると、震え(Shivering)がなくなって、自己回復ができなくなっていくらしい。なんとも恐ろしい状態が想像できます。

治療法にも驚き

阿南医師の論文には、”治療法”も示されています。まずは、体温が失われるのを防ぐため、濡れている衣服を脱がす、濡れた体を乾いた布で拭きとることが第一歩とあります。

体温を確認して、心臓の動きを確認する。それも、深部体温を測る。直腸や膀胱に体温計を入れて測るらしい。(別の記事では、腋や口腔内で測るときは、1~2℃低く見ればいいようです。)

軽症(34℃以上)では、自己体温調節機能が残ってい流ことが多いので、暖めた毛布、暖かい環境で外側から温めます。受動的体外復温といます。おそらく、暖かい飲み物なども有効でしょう。

中等症レベルまで体温が低下している場合、これに加えて電気毛布、温風器、40℃〜45℃の加温加湿酸素の投与、40℃〜42℃に温めた輸液など積極的な外からの加温がいるとしています。能動的体外復温とよばれています。輸液とは、一般的には静脈を通じての点滴のことです。

重症では、これらの治療に加えて、温めた生理食塩水を2本のチューブを使って腹膜灌流、胸腔灌流、体外灌流など、そして温度管理できる人工心肺装置など積極的な復温が必要とあります。これらを能動的体内復温といいます。ここまでやるとなると、病院で命ギリギリの治療となりますね。

なるほどそうかと知ったことがあります。低体温症が原因による心肺停止のときは、治療して回復した予後において、神経学的に良好な回復が見込まれるのだそうです。つまり、通常より長い時間意識がなく、心肺停止になっても、蘇生に成功し生存することがあるそうです。これは、麻痺が少ない回復の可能性があるということでしょうか。そのため、心肺蘇生(CPR)についていつもより長く試みることを求めています。除細動(VF)については慎重にするということも書かれています。

救急医療の論文はせまるものがあり、低体温症を治療することがどれだけ大変かわかりました。