根津山の日記

日々の生活をまとめます。世田谷代田、理科教育、戦前の教育

戦前の都心の小学校のようす(M先生にききました。)

昨日、#理科カリキュラムを考える会 に参加して、懇親会にも久しぶりで参加しました。いつもお見えになっている、大先輩のM先生に戦前の尋常(国民)小学校の様子を聞きました。

M先生は94歳になったそうです。昭和16年3月に練塀尋常小学校を卒業しています。つまり、昭和3年生生まれです。以下はM先生の記憶をまとめたものです。

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小学校は昭和10年年度、下谷区練塀(れんぺい)尋常小学校に入学しました。学級数は3クラス 男子、女子、男女 の学級があり、それぞれ46名の児童がいました。

私は印刷屋の子どもで、秋葉原の学校に通いました。校舎には関東大震災で被災して、建て直した校舎には最新の理科室が設置されていました。理科室で実験をした記憶があります。酸性、アルカリ性などの実験をしたのを覚えています。

 

その頃の進学状況は、府立中学校、女学校がもっともレベルが高く、次に私立中学校、女学校でした。中学校に通う子は1校あたり1名ずつぐらいでした。

「成績が低いのに中学校を目指したのは自分だけっだった。」

府立中学校は東京に12校ぐらいありましが、増えて15校ぐらいになっていました。下谷から近隣の中学校に行くので、およそ各校1名で、5、6名の子どもが府立中学校に進学しました。府立に行けない子、お金のある子どもは私立の中学校や女子は女学校に進みました。

そのころ、状況が変わり入学試験はなくて、内申だけで合否が決めていました。試験といえば、体力検査で、戦時下に置かれたので、手榴弾をどれだけ投げられるかというような、体力検査だった。内申で合否が決まるので、中学校にはいけなかった。

今から思うと、「小学校のときになぜわからなかったのか」と振りかえることがります。

 

中学校には入れず、区内に1つだけある高等小学校に入りました。下谷区の全学区域から1つの #高等小学校 に子どもが集められました。

#高等小学校 には練塀小から男子は4名が進み、M先生以外の他の男子は高等小学校を卒業後に軍へ進みたいと希望を持っていました。

その高等小学校は規模が大きくて1学年で22学級でした。学年は1、2学年の2年間。児童数は2学年しかないのに、1000人を超えていました。とうとう、練塀小学校の同窓生の3人は少年航空兵として軍に入りました。そして、高等小学校の卒業後の子ども1000名は軍需工場に就職していきます。また、満洲開拓義勇軍に応募した女性もいて、戦後は満州で残留孤児となりました。

小学校で、その他の学力の低いことたちは商業、工業などの実業学校に進みました。工場ではたらいたり、商店などで働くためにいきました。

上級学校へ行かなかった児童が、男子は1名いて、女子は数名いました。その子たちは、都会ですが、よその家に行き働いたり、子守りをしていました。その頃は、貧しくて、学校に行けない子どもがたくさんいた。

軍需景気でにわか金持ちがあちこちに現れた時代でした。

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【わかったこと】

都心の小学校では3学級と学級数がおちついていたようです。郊外で人口が急増し子どもが入りきらないようすとはだいぶ違います。

進学も多くの子どもが上級学校に進んでいます。しかし、中学校へは数が限られていました。おそらく、全体の半分から3分の1程度の子どもが中学校のに進学しています。これは、私の予想と同じような状況です。大正期から進学率は上がっていて、やはり進学に対して家庭の考えが変化してきていることがわかりました。

中学校の入試のしくみが変わったことや、中学校以外に進学する子どものこともわかってきました。

高等小学校が1校しか区内になくて、1学年に1000人を超える子どもがいたそうです。このこ下谷区の状況は、他の都心の高等小学校でもあったとみられ、高等小学校が溢れんばかりの生徒の写真が他の資料でもみられます。

 

多分ですが、そのころは進学の状況が高まり、下谷区の全域から1つの#高等小学校 に子どもが集められました。三ノ輪にあった、下谷中学校の前身の下谷国民高等小学校です。